例えば書店の棚から面白そうな一冊を抜き出して、その帯に推薦文が載っていれば「当たり」である。それは「帯文」であり、僕はそそくさとそれをメモする。
本を買ってしまうのが一番良いのだろうが、読む時間の無さと財布の薄さがアダとなって、多くの場合は書名を控え、帰ってから出版社のサイトなりで改めて書影を眺める。ここまで書いていて、ふと「ちびまる子ちゃん」のエピソードで、オマケ目当てで買ったお菓子を、オマケだけ抜いて捨てるというのを思い出したが、それは今関係が無い。
ともかく帯文収集の一歩目はそんな風に踏み出される。
帯文データベースにおける作業フローは、僕が帯文データをエクセルに打ち込むところから始まる。これはほぼ手打ちなのだが、最近は不精を覚えて OCR を使うこともある。ただし OCR で取ったデータの校正は手作業である。
帯からデータを抜き取る際は一筋縄ではいかずに迷うこともある。帯をぱっと見て、例えば「○○氏、絶賛!」とか「○○ちゃん、推薦!」とか書いてあるパターンは、地の文と ○○ さんの推薦文の区切りが分かりやすく、“良い帯文”である。その逆は困る。どこまでが地の文で、どこからが推薦文なのか分からないものがある。
むろん、こんなサイトをやっている以上、それが悪い帯文だとは内心で思っていたとしても言わない。ただ、帯文収集の作業上、そのような評価軸が成立しえることは間違いない。
迷うパターンは他にもあって、例えば推薦文をキャラクターが語っているものは、収集の対象とすべきか否かが分からず、当初頭を抱えた。キャラクターの帯文ってどういう事? という向きには、実例へのリンクを張っておくので確認されたい。
現在ではキャラクター帯文も、黙々と収録している。帯文の採録に当たって、不採用とするだけの理由を見つけられなかった為だ。
当たり前だが、柊かがみや暁美ほむらや両津勘吉や高坂桐乃が本を読んだ上で、これ面白いよって推薦文を書いているわけではない。帯文というプロダクトの背後にいる、編集者やビジネスマンが書いたのである。
しかし推薦者が実在するしないに関わらず、その名前がはっきりしていて推薦文があれば、帯文としては成立している。これを弾くことは、なんだかアンフェアなように思われる。
別ベクトルで困るのが、著名な推薦者の顔写真なんかが存在していて、「○○さん共感」といった煽りもあるのだけれど、肝心の推薦文と思われるものをよく読むと地の文だというパターンである。名義貸しのようなものが帯文にまであるのだ。これは採録しないが、エクセルに半分くらい打ち込んだ頃合いに「あれ?」と違和感を覚えて、結局不採用という結末を辿る。これはすぐれた広告ギミックであり、帯文収集者を効率よく挫く罠である。
他にも同じ本でも版によって帯文が違ったり(同じ本で数パターンの帯文が存在する原因のひとつであり、後からデータを参照しにくくなる)、帯文が表紙側/裏表紙側にまたがっている場合の扱いなども苦慮する。
後者の場合、これもいくつかパターンがあって、表と裏で別個の推薦者がそれぞれ帯文を書いている場合は、すべて収録するだけである。だが、表はキャッチーに要約した帯文で、裏はその元となった全文みたいなパターンもままあり、これ、どうすんの、となる。帯文データベースでは、苦渋の判断で「表」を拾わずに「裏」の全文のみ採用していることが多い。
あるいはまた、二人以上の推薦者が連名で帯文を書いているケースもある。こいつは安上がりな仕事だなと思いつつ、予算が無かったんだろうか、などと要らぬ心配も生まれる。ちなみにこのケースでは、ひとつの帯文を A さん(仮)の欄と B さん(仮)の欄に紐づけて、それぞれ別個に収録している。
このように、収集にあたっては試されている気分になることも多い。
ここまで見てきたように、帯文という表現はゆらぎのある、なんだか曖昧なものである。何を採録して、何を採録しないのか。その判断自体は帯文データベース側のものだが、基準はいつも単純である。
例えば帯文の良し悪しは問わないし、ポリコレ無用だし、ISBN の有無も問わない。仮に自費出版であっても、帯があり、推薦者がいて、推薦文が存在していれば収録するのだ。
もう少し言えば、「この帯文はつまらないな」とか「このシリーズは同じ帯文を使いまわしているな」といった感想を陰では抱くこともある。逆に、「これはいい文章だな」とか「この推薦者のレトリックは上手いな」と思うこともある。帯文に出来不出来があるのは「最短の帯文と最長の帯文を紹介する」でも述べたとおりであり、しかしそれは帯文収集の基準にはなり得ないものだ。
このように帯文データベースにおける収集作業は、もろもろの個別の事情をみんな棚上げしてしまう。判断しない、と判断したからこそ成立するのが帯文データベースである。
いずれにせよ、帯文というプロダクトはビジネス上のフィルターをくぐり抜けて商品として僕の手元にたどり着いているのだ。その意味で不可逆なのであり、今、手元にあるもの自体は不変だ。
そしてプロダクト側で商品化の許可が下りて僕の元にやってきた以上、こちらはその結果を、黙々とエクセルに打ち込むばかりである。
だから帯文データベースに並ぶ帯文たちは、送り手の仕事の結果と、あるいはそこから滲む背景まで、そのまま映している。
そんな帯文データベースも 2011 年の公開からすでに 14 年が経過した。重ねた年数とは裏腹にまだまだ発展途上のアーカイブだが、どうぞ御贔屓に。