帯文データベースは、事実上、優れた帯文よりも凡庸な帯文を集める仕組みです。
もちろん、すべての帯文を収集対象とするのですが、実務的には凡庸な帯文を大量に扱う設計になっています。ではなぜ凡庸な帯文が優位かというと、それは帯文が作られる過程がブラックボックスだからです。
帯文は出版というプロダクトに従って、日々大量に世に出ますが、プロダクト内部の事情――それがどのようにして商品化されたかは、消費者の側からは見えません。
そしてブラックボックス内部は不可視ですが、帯文自体は文字セットの任意の組み合わせであり、そこでは帯文になり得る言葉の組み合わせが、バベルの図書館のように無数に渦巻いているはずです。
そして人間による選択や決定といった行為(編集方針、推薦者の選定、関係者間の権力勾配、出版社の社風、ポリコレなどの時代の空気、予算や締め切りなど)すら、ブラックボックスの内側にあります。
原理的には、実際に刷られた帯文を手掛かりにして、つまり帯文から人間的な選択・決定のパターンを抽出できれば、逆算的にブラックボックスの輪郭を照らすことができるかもしれません。
しかし世に出た帯文(実現した文字セット)のみを素材として、ブラックボックスを再現し、そのすべてを把握することはできないでしょう。
分かりやすくするために、ここでは仮に、ブラックボックスからの出力(名文/悪文/凡庸な帯文)を図にマッピングしてモデル化すると、正規分布を描くと仮定しましょう。
極端に良い帯文も、極端に悪い帯文も少数に違いなく、外れ値です。多くは平均に収束し、これが凡庸の実相です。
従って、帯文は構造的に凡庸なものなのであり、外れ値は全体を代表しないために、帯文データベースはこれを中心的に扱います。より正確に言うなら、それぞれの母数に大きな差があるため、結果的にデータの集まり方が偏ります。凡庸な帯文が優位というのは、母数の差という意味においてです。
出版に携わる人びとに課された制限(リソースの有限性)を伴う選択・決定により、帯文はブラックボックスからごく一部が引きずり出されます。この選択が、帯文に広告という社会的意味を与えます。
選択とは、「これ以上は先に行けない」という不可能性の表現であり、それが意味を起動させる直接的なスイッチになっています。意味はその時点で初めて立ち上がり、ブラックボックス内部で待機している間は、広告という社会的機能が与えられていないために無意味です。
しかし重要なことは、帯文の意味は、この無意味こそが支えているということです。なぜなら、意味をもった帯文は、この無意味な言葉の群れを資源にしているからです。
一意の帯文が世に出るまでには、プロダクト側のリソースが尽きるまで推敲や校正、編集会議などによって、分岐可能な多数のパターンが検討されます。一つの帯文の背後には、帯文になれなかった言葉たちが連なっているのです。
そしてブラックボックスであるがゆえに、無意味という一点において、その内部ではすべてが等価です。人が書いた帯文候補も、AIが生成した帯文候補も違いはなく、ここでは人も機械も平等です。
ここまで概観してきたように、帯文データベースは平均的な帯文を中心に据えています。
出版プロダクトがそれぞれの時代に残した帯文の蓄積――言い換えれば凡庸さの束は、各時代のブラックボックスそのものを把握できないまでも、輪郭を照らす糸口になり得ます。
今はまだ理論上の可能性ですが、帯文をめぐる不可思議さを探ろうとする小さな試みが、帯文データベースです。