万能の百科全書家、戦闘的唯物論者 戦争中だったか、あるとき戸坂潤はいつもの快活な笑いをうかべていったこと がある―「おれはH・G・ウェルズだよ」と。たしかそのとき戸坂はなにか探検 物語みたいなものの解説をかいていた。「そんなものまでやるのかね」という私 の問いへの、それは返事だった。かってウェルズが「タイム・マシン」を書き、 世界史をかき、生物大系をあらわしたように、戸坂もまた万能の百科全書家だっ たといえる。かれの全集をみれば、そこに哲学、科学とともに文芸、政治そして 文化全般にわたる多彩な思想の景観がその全貌をあらわすだろう。 しかしその本来の面目は、かれがファシズムの戦争との暗黒の時代にあっぱれ な戦闘的唯物論者として説をまげず、ほれぼれとする男らしさで不屈の闘争をつ らぬきとうしたところにある。獄死の知らせをきいて、私はおもった―もし唯物 論というものを一個のなまみの肉体にきざみあげるなら、それはやっぱり戸坂潤 のような一つの立像になるほかあるまいな、と。 その頑丈な理性。あくない探究欲。人民の自由のための献身と戦闘性。かれの 全集は近代日本の思想史のほこるべき記念碑である。