――その種の私小説は、読者の目を強く意識し、時に自分を美化して描く(たとえ愚者のふりをしていたとしても)。 だが、藤澤清造に少しでも近づけることを求めながら、自らは小説家になることを目指していなかった西村賢太の私小説にその種の美化はない。 なるほど彼の小説に登場する「私」は常に愚者である。 それはすがすがしくも本当の愚者である。だから西村賢太の小説は不思議にあと味が悪くない。