帯文データベースの原本と言うべきものがある。それはWebサーバーに置いてあるHTMLやCSVファイルなどではなく、僕のパソコンに入っているエクセルブックである。
帯文のデータはすべてこれで管理しているのだが、ある時、操作を誤って「推薦者」の列を削除してしまったことがある。
むろん「元に戻す」をクリックすることで事なきを得たのだが、その間、推薦者と推薦文の紐付けが失われ、パソコン画面には単なる「煽り文」だけが表示されていた。
その瞬間、今まで無意識に前提としていたものが可視化されたことに気が付いた。つまり、帯文というものは「本文だけでは成立しない」ということである。言い換えれば、推薦者-本文のふたつが揃って、初めて帯文が成立する。
画面に浮かぶ煽り文たちは、推薦者の情報が無ければ帯文として意味を持たない――帯文という文脈を失ったため、もはやそれが何なのか分からない。
例えば、引用するとこんな具合である(リンクは帯文詳細ページ)。
このように、本を薦めて売るという本来の役割を果たせないために、それらは「帯文」から、単なる文字の羅列であるというところにまで後退している。
後退した、という表現は次のような含みも持つと言ってよいように思う。その文字列自体は煽り文ではあるため、一定の方向性を持った文章には違いない。
帯文あるいは出版プロダクトという文脈でいうなら、端的に「帯文になることを待っている文章」ということだ。案出しされ、推敲され、校正され、編集会議に掛けられ、そうして無数に挙げられた帯文候補たち、そのうちの一つということであり、これから出版に向けていくつものハードル、フィルターを掻い潜らないといけない言葉たちだ。
昨今ではポリコレ、炎上対策、平等、考えるべきことは多いだろう。その上で煽らないといけない。
ここまで書いて、もうひとつ気づくことがある。ある一冊の本に与えられた帯文は、たったひとつ存在するだけだが、その一意の帯文が生まれる裏には数えきれない「帯文になれなかった言葉たち」が存在しているだろうことだ。考えてみれば当たり前で、お金をかけたプロダクトがぶっつけ本番で成立するはずもない。
今や帯文制作にもAIが活用されていることだろう。案出しに留まらず、あるいはゴーストライティングも行われているかもしれないが、それは消費者の側からは見えないことである。
もっとも、帯文が生まれる過程は、昔からブラックボックスなのであり、その見えなさのひとつの側面として「帯文の曖昧さとデータベースとの距離について」で触れたような、キャラ帯文や名義貸し帯文や連名帯文が、帯文という商品の揺らぎとして現れる。
そもそもキャラ帯文を経験している身からすると、AI帯文などなんという事はない。仮にゴーストライティングであっても、人物名と紐づいていれば、採録する理由としては十分である。
先の記事で述べたように、帯文データベースではそれらを丸ごと記録している。端的に、そうした事情はプロダクト側の責任の問題であって、帯文データベース側では関与できないためだ。一度世に出たら、それが帯文である以上収集するのがこちら側の役目である。
そう考えると、帯文というのは案外、プロダクトが生み出せる最善の文章という訳でもないことが分かる。帯文における最高の文章――名文はむしろ、外れ値の側に属しているのかもしれない。
大方の帯文は、出版社の社風、ポリコレなどの時代の空気、編集会議のメンバーの権力勾配、締め切りや予算と言ったいろいろなハードルに揉まれ、落としどころの結果として産声を上げているのが実態だろう。なんせ揺らいでいるのが帯文なのだから。
だから帯文の文章は、多くのプロが携わっているにもかかわらず、というより、携わっているからこそ凡庸に落ち着く。その“平均的”あるいは無難な帯文は、魅力に劣るのが泣き所だが、将棋でいえば最善手でこそないが、その時代時代の次善手を志向したものではある。
あるいは時代で区切ってそうした帯文をソートすれば、その時代に特有の社会の顔が浮かび上がってくるかもしれない。
ともあれ、帯文候補はどこかの段階で推薦者とマッチングし(それは著名人が本当に書いたのかもしれないし、ゴーストかもしれない)、採用されて刷られた瞬間、販促物という社会的意味を付され、帯文となる。無意味な文字列の群れと決別し、消費者の目の前に現れる。
また一行、エクセルの列が下に伸びる。