僕は遠方からおしよせる「大洪水」の水音を、ふたつの時代の人間の想像力のうちに、またかれらの行為と実存のうちに、共震する響きをつうじてとらえようとした。その、しだいに増大するコダマは、ついに全的なカタストロフィを構成せざるをえない。しかもなおそれ生き延びる、人間の赤裸な意志の光りにおいて、僕は「大洪水」を照しだすことを望んだのである。